2015 年度 「先進研究奨励」費 申請書

2015 年度
「先進研究奨励」費
申請書
学籍番号:12DK002
氏
名:稲田 友音
学
年:博士後期課程三年
研究課題名
北魏の皇太子制度について
研究目的と意義
三世紀に北方騎馬民族である鮮卑拓跋部が建てた北魏は、非漢族国家として初めて華北
を統一して、後の隋唐王朝の源流となった。
建国以前の拓跋部は他の騎馬民族と同様に部族連盟の形態をとっており、盟主ではある
がその権限は他の有力部族の影響を大きく受けるものであった。よって建国後の北魏皇帝
は、部族体制からの脱却と皇帝権力の確立・強化に尽力した。その過程において皇帝位の
嫡長子継承の導入と定着は非常に重要な課題であり、すなわち北魏皇帝の権力構造を論じ
る上で不可欠なテーマである。
北魏の皇太子については北魏前期に二例存在する、皇太子に内政の権限を付与する、所
謂太子監国を取り上げた論考がいくつかある。その中で、北魏二代皇帝明元帝による、初
の太子監国設置を示すものとして挙げられる記述が以下の通りである。
【史料1】『魏書』巻三、太宗紀、泰常七年の条
夏四月甲戌、皇子(拓跋)燾を封じて泰平王と為す。燾、字は佛釐、相国を拝し、大
将軍を加う。……五月、詔して皇太子をして朝に臨み政を聴かしむ。是月、泰平王、
摂政す。
ここには、四月に皇子拓跋燾(後の三代太武帝)を泰平王に封じ、翌五月に詔を下して皇
太子に臨朝聴政(皇帝に代わって朝廷において政務を執り行う)させたとある。この泰平
王と皇太子とはどちらも明らかに拓跋燾を指しているが、しかし拓跋燾が改めて皇太子に
立てられたとする記述は見られない。かつ皇太子と明記されたすぐ後に、再び泰平王と称
されている。先行研究においては泰平王に封じられると同時に皇太子に立てられたとされ
ているが、しかし別の個所には
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【史料2】『魏書』巻四、世祖紀上
泰常七年四月、泰平王に封じ、五月、監国と為す。太宗(明元帝)疾有り、帝に命じ
て百揆を総摂せしむ。
とあって、ここでも拓跋燾(世祖)が泰平王に封じられ、監国となったことは明記されて
いるが、やはり皇太子という文言はみられない。拓跋燾が監国となったことは他の記述か
らもあきらかであるが、しかし果たして皇太子に立てられたのか否かについては再度検討
する必要があるであろう。
また、北魏の皇太子制度の導入の契機として注目されている記述が以下の一文である。
【史料3】『魏書』巻三五、崔浩伝
是に於いて浩をして策を奉り宗廟に告げしめ、世祖に命じて国副主と為し、正殿に居
し朝に臨ましむ。
これは明元帝のブレーンである漢人官僚崔浩が、明元帝に次期皇位継承者を早急に定める
べきであるとことを説いた後に、明元帝が拓跋燾に命じて政務を執り行わせたとするもの
である。これが先に示した泰常七年五月の「詔して皇太子に朝に臨んで政を聴かしむ」と
の記述と同一の事象をさすことは明らかである。しかしここには「皇太子」ではなく「国
副主」とある。これら記述の齟齬は如何に理解するべきであろうか。
申請者はこの「国副主」とは漢族王朝でいうところの皇太子とは異なる、北方騎馬民族
の習慣に由来するものであると推測している。この「国副主」が如何なるものであるのか
を明らかにすることができれば、北魏における皇太子制度の導入や確立過程、そしてその
特有な実態を明らかにするのみならず、ひいては部族制の中から生まれた北魏特有の皇帝
権力の構造の一端を解明することができると考えている。管見の限り、このような観点か
ら北魏の皇太子制度を論じた研究は見られない。
よって本研究の目的は

「国副主」の内実を明らかにする。

「国副主」と所謂漢族王朝的皇太子との差異および共通点を明らかにする。

上記二点を通じて、北魏における皇太子制度の変遷を明らかにする。
の三点であり、また上記の考察を通して、

北魏前期における皇帝の、漢王朝とは異なる(と想定される)権力構造を明
らかにする。
という点に意義があると考える。
なお研究方法は、主に『魏書』や『北史』などの正史や『資治通鑑』や『太平御覧』と
いった北魏に関する歴史書の読解、および墓誌の読解も行う。
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研究計画
時期
4月~7月
項目
先行研究及び
史料調査
内容
・北魏の太子監国に関する中国の先行研究の調査、収集。
・中国王朝の皇太子制度に関する先行研究の調査、収集。
・北魏の墓誌の調査、収集。
8月~
史料分析
・収集した史料をもとに論点を明確化する。
9月~
論文執筆
・「北魏の皇太子制度について」(仮)の執筆を開始する。
12月
研究会報告
・東洋史研究会(於福岡大学)での報告予定。
2月
論文投稿
・全国誌への論文投稿。
3月
研究報告
・国際文化学会、研究報告
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